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猫の日

今日は猫の日です。
キャットフードのお店からイベント情報のメールが送られてきました。
それで「あっ、そうか」と気づきました。

うちは6頭いるから、毎日が猫の日みたいなものです。
家の中も猫たちの事を一番に考えてあるから、インテリアも何もありません。
コタツが大好きだから、コタツは3箇所も置いてあるし、
屏風と毛布でテントみたいなものを作り、猫の寝室になっているし
マッサージチェアはミニホットカーペットを置いて、猫の休憩所だし

猫小屋の中に人間が同居させてもらっているという感じさえあります。
自分でも「親ばか」と思いつつも出来るだけ快適に生活させたいとついついです。

町の中で猫が生活することはとても難しいことです。
町の中には「誰のものでもない」という地面がありません。

原始時代のように人間も動物もどちらのものでもない土地に生存している時代は
動物を保護したり、飼ったりする必要はないでしょう。
今の世の中で野良猫が生きるのは厳しすぎる環境です。
地面は土地は、人間だけのものなんでしょうか?
人間が生きるために必要最小限の土地を使うことは良いとしても
不必要な土地まで所有する必要があるのかなあ?と思います。

土地のことだけではなくて、生活そのものをもっと小さくコンパクトに
していった方が良いような気がするのですが。

町には野良猫がいっぱいいて、ものは修理しながら大切に使い
少量の消費に見合った少量の生産
それでは人間は幸せを感じることは出来ないのでしょうか。

外で飼う事は出来ないから、家の中で環境を整えてもらって生活する猫と
野良でも生きていける環境の野良猫と
うちの猫たちはどちらを選ぶのかしら?

私には判らないけれど、うちの子になった猫たち、
かあちゃんはこれからも「うちの子でよかった」とにゃん子達が思えるように
愛情を注ぐからね。
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今世に

現世界に縁あって?
魂が自分の修行の課題を選び、親を選んで生まれてくる、
という考え方もあって?
どちらもそうかもしれないと思うので、わからないけれど、とにかく私は生まれてきた。

私は自分の人生を、今の瞬間をとても幸せだと思う。
人から見ればどんな生活かは判らないけれど、
自分の身の丈に合ったといえばいいのかなあ、
背伸びしている感じもなく、何かが足りなくて欲しいものがいつも心の中にあるというのでもない。
年齢と共に老化してくる頭や体を感じながら
認知がかってきた母の世話をすることは葛藤がいっぱいあるけれど、
自分が不幸だという感覚は全くなく、幸せだと思う。

母とは全く生き方も考え方も違う。
私の価値観から判断すると「私は母の様には絶対になりたくない」と思う。
母の価値観は目に見えるもの、お金や地位や学歴やと母に対して下出に出てくれるかどうか、
で人の良し悪しが決まる。

私は大した事は出来ないけれど、家の周りやごみステーションの掃除をしたり、
そんな簡単なことで何か、人のお役に立ちたいと思う。
母は「そんな得にもならない事はする必要がない。お人よしの馬鹿だ」と言う。

母の様に物事を損得で判断し、人間関係を自分を基準に上下に分け、
自分の下だと思えば言いたい放題の人間性を好きにはなれない。
それでも母の為に一軒の家を提供し、食事をつくり、役所の手続きやわずらわしい用事は
すべて代行し、諸々の経費を負担して世話をしている。

母の資産は私の2倍以上あるけれど、「老人はお金だけが頼り、もっとお金を貯めたい、増やしたい」
とお人よしの私に寄りかかって生きている。

自分の親を尊敬できたり、好きになれたらどんなに良いだろう.....という強い願望がある。
けれど、それは私の「欲」だと気づいた。
母の生き方を認め、それをそのまま受け入れること、それが私の修行ではないかと思っている。
親を尊敬し好きになりたいという私の「欲」というか、心の執着を捨てること。

私の魂がそういう修行をしようと現世に生まれてきたのかもしれない。
私にとっての超難題だなあ。。。。。


ヨガの完全弛緩のポーズ

ヨガでアーサナ(ポーズ)をした後に休憩というのでしょうか、静かな時間を持ちます。
その一つに完全弛緩のポーズ「死体のポーズ」というのがあります。
ただ寝転がって体全部を緩めるというものですが、
これが私にはとても難しいです。
足や手などは比較的簡単に脱力できますが、腰や首筋は中々、緩みません。

中々緩まない体ですが、時々、とてもうまく脱力できる事があります。
そんな時は脱力しているはずなのに体がとても重たいのです。
床が底なし沼みたいな感じになり、全体がじわじわと重たく沈み込んでいきます。
その時、体の重たさを感じているのはどこなんでしょう。

太りすぎて、動く時に体を重たく感じるのと全く違う感覚になります。
肥り過ぎた時は自分の体そのものが重たさを感じているような気がします。
脱力している時の体の重さは心でもない、体でもない、普段は肉体の為に感じることが出来ない
魂とでも言うのでしょうか、
全く普段は判らないものが感じられるような気がします。
うまい表現ではないのですが、「魂」が肉体の重さを感じている気がします。

私は魂が心とは別物で、どこかにみんな持っているものだと思っています。
仏教で言う所の「仏性」やキリスト教で言う所の「神」
すべての人が持っているとされているもの
それは普段は肉体というシールドに阻まれて、閉じ込められている
そんな様に考えています。

ニルバーナを求めたり、神を求めたりする人達になぜ肉体の修行が必要なのか、
精神性を求めるには肉体と向き合い、肉体というシールドを薄く薄く剥がすという方法があるのかもしれない。
ヨガのポーズから感じたことです。

心の中で応援

毎日、買い物に行くデパートが経営母体のスーパーがあります。
そこにとても気配りのできるレジ係さんがいます。

最初にその人に気がついたのはとても大きな声ではきはきと応対する声が遠くでも聞こえたからです。
その声の大きさに最初は驚きましたが、明るく爽やかな言葉遣いがとても感じよく
「このスーパーはさすがに接客のプロのデパートが経営しているだけある」と思いました。

20年近く飲食店を経営していたので、接客にはついアンテナが向いてしまいます。
もう仕事をやめているのですが、続けていればこの人をホールのマネージャーにスカウトしたいと思いました。

それから1年近く経ったでしょうか。
レジ係さんはどこにいるのかわからないくらいにおとなしくなってしまいました。

その店の店長は買った日のこんにゃくが消費期限を1週間も過ぎていたので
交換をしに行った時、その場に店長がいるにもかかわらず、謝ることより先に担当者を呼び、
交換してもらうまでの時間、一言もお客の私とは言葉も交わさず、
謝る担当者を眺めているだけでした。
その時から、この店長ではあのレジ係さんの良さが潰されてしまわないかと心配でした。
ただ機械的にと言うか、マニュアルそのままのレジ係さんが増えて、気配りのできるレジ係さんが減ってきました。

「しばらく顔を見なかったから、さびしかったよ」とか
「最近、元気がない気がするけど体調は大丈夫かな」とか
声をかけることしかできないけれど、
心の中で「あなたみたいなレジ係さんがすばらしいレジ係さんだよ」
と応援しています。





もののやり取り

喜捨という言葉が仏教用語にはあるけれど、
これは「捨てさせてくださってありがとう」と差し上げる方がお礼を言うのが決まり。
仏教の基本的な考え方は欲(執着)があるから、生きる苦しみを生じるのだから、
出来るだけ欲を捨てること(執着のない心になる)が苦しみから逃れる道であると説かれています。
自分の心の中の色々な欲、物欲や金銭欲を捨てるのにも道端へ捨てるようなわけにはいかないから、
「喜捨」することで捨てられてありがとうございます。との事みたいです。

相手がご僧侶ではなく、人と人とのもののやり取りはどうでしょうか。
何かおいしいものを食べた時、他の人にも食べさせてあげたいと思います。
反対に頂いたときはとても気持ちが嬉しいです。
そういうもののやり取りが出来ればとても嬉しいのですが、そうでない時もあります。

ものをあげる方の人に
「高価なものをあげるという自分に優越感」が大きかったり、
財力を誇示するための機会だったり、
相手が喜んでくれると嬉しいという気持ち以外の心が感じられることもあります。

ものを貰う方も
買わずに済んで儲かった、というようなお金の損得の喜びが
相手の心遣いに対する嬉しさより大きいと感じられることもあります。

相手がご僧侶の場合は「喜捨」ということで理解が出来るような気がするのですが、
一般の人間同士のもののやり取りの場合は仏様の教えなら、どういうことになるのでしょうか。
知りたいと思います。






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Author:ねこのかあちゃん
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